クリエイティブの力で能登に「奇跡を起こしまくる」|〈SCARAMANGA〉〈NOTONOWILD〉辻野実さん
能登町を拠点に、クリエイティブの力で地域の「誇り」を再定義し続けるデザイナー、辻野実さん。彼の活動は単なる地方移住や地域活性化の枠に収まるものではない。復旧から復興へとフェーズが移る能登のなかで、「創造的復興」という言葉が一番似合う人物だ。話はストリートカルチャーが皆無だった高校時代の能登町から始まる。

ブレイクダンスにはまった学生時代
能登町に生まれ、高校生まで過ごし、現在はUターン。中心地である宇出津にデザイン事務所〈SCARAMANGA〉を構える辻野実さん。「かつてはガラが悪い土地」で、都会に憧れていた辻野青年にとっては「それがイヤでしょうがなかった」と振り返る。ソフトテニス部では全国大会にも出場する実力があり、全国に友だちができるようになる。すると余計に田舎のマイナス面ばかりが目立つようになっていった。
「当時はストリート雑誌の『BOON』や『COOL TRANS』などを読み漁って、都会のストリートカルチャーに憧れていました」
その後、大阪の大学に進学し、晴れて能登を脱出。大学時代はブレイクダンスに没頭する。そもそも高校生のとき、東京で有名なブレイクダンスチーム〈回転倶楽部〉のワークショップを先輩が地元で開催し、目の前で繰り広げられたヘッドスピンに驚愕した。
だからといって能登には習う場所はない。インターネットで簡単に動画を観られるわけではない時代、テレビ番組で流れていたブレイクダンスを録画したVHSビデオを擦り切れるほど見て、独学で学んでいた。そんな渇望もあり、大学では一気にブレイクダンス欲が爆発する。
「だけど結局、誰も教えてくれませんでしたね、見て覚えろって感じで」
当時は大阪の各駅ごとにクルーがあり、まちなかに練習場所があった。辻野さんは梅田にあったクルーに惹かれ、とにかく行ってみることに。「一緒にやらせてください」と申し出たら、薄暗いほうを指される。そこではたくさんの人が練習していた。
「柱で仕切られたブロックごとに序列があるんです。暗い場所から始めて、仲間に認められるとだんだん明るいほうへ“昇格”していける。その序列がおもしろかったし、自分の力で居場所を勝ち取る感覚が楽しかった」
ここで出会った仲間とクルーを組むなど、ブレイクダンスを謳歌していた。これが今にも通じる、辻野さんのヒップホップマインドのルーツだ。

そんなブレイクダンスの遠征で高知県にいるとき、2007年(平成19年)能登半島地震が起こった。
「『おばあちゃんとあと何回ごはんを一緒に食べられるかわからないよね』という先輩の一言を鮮明に覚えていて。自分のばあちゃんのことを思い出して泣きそうな気持ちになり『近くにいるべき』と思ったんです」
ただし、そのとき戻ったのは金沢まで。親や祖父母の大切さを感じて近くまでは戻ってきたものの、震災復興や復旧の手伝いをすることはなかった。今の辻野さんの活躍からすると、やや意外である。
「自分が好きなカルチャーの観点では、能登はまだ物足りなかったです」
魅力的な仕事もない。まだまだ好きな場所には「昇格」しなかったのだ。
〈NOTONOWILD〉を始めなくてはならない

デザイナーとして独立し、金沢に家を建て堅実に暮らしていた。そんなあるとき〈日本創成会議〉が2014年に発表した「消滅可能性都市」に、地元の能登町が選定されていることを知る。
「自分が通っていた小学校・中学校・高校がすでになくなっていて、その上、生まれ故郷の名前までなくなったら、自分自身が否定されているような気持ちになって、正直“むかついた”んです。そこでクリエイティブのチカラでこれにアプローチしてみようと思いました」
では、問題はなにか? 今は能登から離れているけれども、大好きで強い思いをもっている人は多い。同時に「田舎・イヤなもの」であるという相反する気持ちも併せもっている。そのギャップを埋めるものは「誇り」だ。ローカルあるあるとして、町の誇りといえば祭りなのである。
「自分たちの特別なものとして『あばれ祭』があります。それをかっこいいミュージック・クリップのようにきちんと撮影・編集して動画を作ってみようと」
こうして2016年〈NOTONOWILD〉が発足する。辻野さんが初めて能登に正面から向き合った活動だ。しかしまだ、能登愛というより危機感のほうがモチベーションとして強い。
「何かしらアプローチして活動を始めないと、ただ終わっていくだけ。だからとにかく動きたかったし、フラストレーションのほうが強かった。ただ、それこそがヒップホップの精神だと思っています。困難に立ち向かう手法のことをヒップホップとして捉えています。だから今、僕はヒップホップやっています」
こうして〈NOTONOWILD〉は金沢でも少しずつ認知を広げていき、“能登はおもしろい祭りがある場所だ”とみんなの視点も変容していった。その後、コロナ禍をきっかけに辻野家は能登町に移っている。そして令和6年能登半島地震が起こる。
ローカルネットワークをもっていた強み

震災後、辻野さんの復旧への動きはとても早かった。その要因のひとつは〈NOTONOWILD〉にある。
「〈NOTONOWILD〉のフォロワーは、ほとんど能登出身者や能登にゆかりのある人たちです。物資が足りなくて困っているときにインスタ・ストーリーズに上げたら、すぐに集まりました」
震災前から活動しており、コミュニティを構築できていたことが奏功した。一声で多くの「能登関係者」に声をかけることができるから。支援の気持ちがあっても、誰にどのように申し出ればいいかわからないという声の受け皿にもなった。
こうした能登の外側にあるネットワークを、内側に展開していったのが〈DOYA COFFEE〉だ。
「もともと地域コミュニティを作るための場所として開業しました。そのおかげで、この辺りはどんな人がいて、誰にどんな話をすれば効率的かというネットワークを構築できていました。だから〈NOTONOWILD〉経由で外から集めた物資を、内側のインフラである〈DOYA COFFEE〉ですぐに配布することができました。川上から川下まで自分たちで設計できたので、素早く行動できたのだと思います」
いざというときはローカルネットワーク、ご近所づきあいが力を発揮する。いつの時代も当たり前に語られるこのフレーズが、本質的に効力を発揮した事例だ。

辻野さんの知り合い関係は「ストリート」な属性が多い。そうした人たちが支援に集まってくれたときに、“窃盗団”と勘違いされたことがあった。
「そこでロゴ入りオリジナルスウェットを100枚くらい作って配りました。これを着ていたらオフィシャルに支援に来た人だということがわかるように。でもみんな真っ黒だし、それはそれで悪そうな雰囲気を醸し出してしまいましたけどね(笑)」
スウェットのほかにTシャツやパーカ、手ぬぐいなども制作。グッズを販売して得た資金で、お祭りや地域に寄付をすることができた。

〈NOTONOWILD〉のグッズはノベルティとは違ってデザインがすぐれている。普段着としても活用しやすいので、思わぬ波及効果を発揮した。
「〈NOTONOWILD〉のアパレルやグッズを持っていたら友だちができた、という連絡がたくさん来るんです。『渋谷で着ている人を見かけてそのまま飲みに行った』とか、『大阪で着ていたら声を掛けられて、仲良くなって一緒に能登に支援に来る』とか。めっちゃうれしい!」
まさにブランド力。ちなみに筆者は取材ノートに〈DOYA COFFEE〉のステッカーを貼っている。これまでのさまざまな取材中にこのステッカーを突っ込まれること多数。顔の広さ、影響力、そして応援したいという気持ち。すべてが一体となって発される「それ〈DOYA COFFEE〉のステッカーですよね?」なのである。
能登に文化と価値を生む『だらぼち音楽祭』開催へ

これまでさまざまなアーティストたちが、支援のために能登を訪れてくれた。そこで狼煙でカレーとレコードの店〈いかなてて〉を営む糸矢章人さん、〈能登DMC合同会社〉で能登島などのツアーガイドに従事する小山基(はじめ)さんらと意気投合。彼らに「恩返しをしたい」と『だらぼち音楽祭』を企画した。
「支援してくれたアーティストたちへの恩返しの気持ちを含めて音楽フェスをやらないといけないのではないか、という話になったんです。“だらぼち”とは、“ちょっと鈍くさいかもしれないけどまっすぐ正直なやつ”という意味です」
辻野さんは能登町、糸矢さんは珠洲市、小山さんは能登島。同じ能登でも住んでいる地域は離れている。しかし、それには意味がある。
「こんなに大きな災害があったのに、能登全体としては、いまいちひとつにまとまりきれていません。実はそれは文化でもあり魅力でもあります。能登は集落ごとに祭りがあって、それぞれがプライドを持ちすぎていてひとつになろうとしない。だからこそ広域に住んでいる若手の僕たちが、同じひとつのことに向かって熱量を出していこうと」
「能登はそれぞれが自由に動く。だからこそ人に力がある」という話をよく聞く。それが魅力なのだが、できるところはまとまらないと、この先に残せていけるものがなくなってしまう。若手のUターン者や移住者がそれを実現しやすいだろう。そして次につなげていかなくてはならない。
「ボランティアや復興ではない目的地を作らないといけません。祭りをカルチャーに、というミッションです。数年かけて少しずつスケールを大きくしていって、能登に新しい価値を生み出していきたい。それが僕たちの考える創造的復興です」

出演メンバーは、能登とは思えないほど豪華だ。THA BLUE HERB、DJ KENSEI、刃頭といったヒップホップの重鎮たち、切腹ピストルズやALKDOなどの『橋の下世界音楽祭』で祭りをよく知るバンドなどが集まる。セカンドステージでは、金沢・能登のローカルDJやアーティストたちがしっかり脇を固めてくれる。
また能登の発酵をテーマにしたフードエリアも豪華だ。能登屈指のシェフたちが手がける「発酵ヌードルレストラン」が出現する。らーめん担当は〈L’Atelier de NOTO〉〈芽吹〉の池端隼也さん、パスタ担当は〈ふらっと〉のベンジャミン・フラットさん、そば担当が〈Villa Della Pace〉の平田明珠さん。
このフードエリアの背景には、能登にあるすばらしい発酵文化がある。そしてその先には、この発酵文化を広く伝えていきたいという目的がある。
「例えば能登のおばあちゃんの発酵食を、世界中の料理人が学びに来るとか。素晴らしい素材を認知させて、次の活動への基盤をつくるべく模索中です」
祭りの最小単位は地域にある

『だらぼち音楽祭』のような大きなフェスも大切だが、〈NOTONOWILD〉の活動の甲斐もあって、地域の祭り復活の兆しも生まれてきている。
「僕の地元である瑞穂という地区では、約30年前に祭りは途絶えてしまいました。しかし2024年から、オフィシャルな神事ではなく地域の盆祭りのようなものですが、キリコを立たせることができました」
キリコとは木や和紙などでできた灯籠で、それを担いで祭りで練り歩く。能登には「キリコ祭り」が200以上あるといわれ、それぞれにスタイルや意匠が異なる。本来は地域が管理するものだが、辻野さんは個人で1基所有。公民館の運営委員になったことをきっかけに、地域に働きかけて実現した。
「2025年には僕が所有している大きなキリコと、中サイズ、小サイズも立てました。大きいものは大人、中サイズは小学生、小サイズは幼稚園児たちに担いでもらいました。地域にこの景色を取り戻して、子どもたちに見せたい。少しずつスケールアップしていって、最終的にはきちんとした神事のお祭りとして復活させたいと思っています」

今年の目標を「奇跡を起こす」ではなく「奇跡を起こしまくる」と力を込める辻野さん。辻野さんの活動を見ていて、復興という杓子定規から外れ自分たちなりのやり方で楽しそうに行なっている、という印象を勝手ながらもっていた。しかしそんな安直ではない。
「本当に奇跡が起こらないと多分無理なんですよ。まだまだスタートラインにも立ってないですね。何ひとつ実現していないですから」
きちんと現実に向きあって、地に足つけて活動している人は、なかなかに手厳しい。だけど、夢も大いに語る。だからこそ信頼できると、みんなが辻野さんを頼り、集ってくるのだろう。
PROFILE
辻野実
デザイナー。能登町生まれ。高校生までを過ごし、大学進学で大阪へ。2007年(平成19年)能登半島地震をきっかけに金沢にJターン。2016年、能登の祭りを伝える〈NOTONOWILD〉を始める。2018年、デザインプロダクション〈SCARAMANGA〉を発足。コロナ禍をきかっけに能登町宇出津にUターン。2022年〈DOYA COFFEE〉を開店。令和6年能登半島地震が発災後は各方面で活動し、復旧・復興に尽力している。


