それでも、アートにできることがある。|「奥能登国際芸術祭」関口正洋さん
能登半島の最先端にある珠洲市を舞台に、2017年から3年に一度開催されてきた「奥能登国際芸術祭」。本州で最も人口が少ない市とされてきた珠洲市に、毎回6万人規模の来場者を呼び込み、また芸術祭を接点とした関係人口を増やすことで移住者の増加にも寄与してきた。「令和6年能登半島地震」が起こったのは、3回目にあたる「奥能登国際芸術祭 2023」が閉幕して2ヶ月足らずのこと。
今回は「奥能登国際芸術祭」のプロジェクトマネージャーを務める関口正洋さんへのインタビュー。発災直後は無力さに直面しながらも、アートにできることを模索し続け「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」など長期的な支援を行っている。地震前のアートと珠洲の関係から、復興段階における試みなどをうかがった。

「アートの出番じゃない」
2024年元日に発災した「令和6年能登半島地震」から、約2週間後の1月13日。道路はあちこち崩れ、金沢から6時間以上かけてようやく辿り着いた珠洲市。現地はどうなっているのか、本当はすぐにでも飛んで行きたかったが「まだ来ないでほしい」と市役所の担当者から制されていたという。
穏やかな珠洲の景色が一変した様子を前に「まったく“アート”の出番じゃないと思いました」と、当時の率直な気持ちを語る関口さん。
「上空にはヘリコプターが飛んでいて、自衛隊の装甲車がまちなかを行き来し、海には巨大な船舶も到着していて。市役所には内閣府などのゼッケンをつけたような人たちが大勢動き回っているー‥。まるでティラノサウルスやトリケラトプスのような巨大生物が闊歩する白亜紀に、息を潜めながら生きていた小動物のような気持ちでした。緊急度が高い現場においては、“芸術文化”なんてそんなものだと思います」

しかし、これはあくまで「出番」、つまり「フェーズ」における話であって、決して諦めの言葉ではない。
なぜなら関口さん自身が、奥能登国際芸術祭をはじめ数々の芸術祭に携わる中で「地域を再生させていくアートの力」を、まざまざと目にしてきたからだ。
そして発災から2年が経過した今こそ、その力が必要とされているのではないだろうか。
まずは、これまでの奥能登国際芸術祭と珠洲市のあゆみを振り返っていく。
「もう珠洲には、これっきゃないんだ」
“一か八か”に賭けた芸術祭
「さいはての芸術祭」として、奥能登国際芸術祭の初回が開催されたのは2017年。当時の珠洲市の人口は約14,000人と本州で最も人口が少ない市とされ、高齢化と過疎化が地域に重くのしかかっていた。総合ディレクターとして招かれた北川フラム氏のもと、プロジェクトマネージャーを任された関口さんは、立ち上げ準備のため2014年から珠洲市に通い始めることになる。
地元の実行委員会メンバーと毎月集まり、「どんな芸術祭にするか」「名前はどうする」といったおおもとから話し合っていく中で、印象的な一言があったという。
「何気ない雑談の中で『もう珠洲にはこれっきゃないんだ』と、どなたか呟かれたんですね」

“日本の原風景がのこる最後の秘境”といったキャッチフレーズと共に、昭和30年代後半〜40年代に巻き起こった“能登半島観光ブーム”も過ぎ去り、昭和50年からは原発誘致が珠洲市に持ち上がる。推進派と反対派で住民は二分され、反対運動は30年間にわたり続いた。結果、原発誘致は白紙になるも「親戚同士でも争った」という分断はコミュニティに大きな禍根を残す。そしてその間も、砂時計のように進む高齢化と過疎化ー‥。
「ある意味『一か八か』というか、それくらい『この芸術祭に賭けている』という気持ちが、その一言から伝わってました」

「向うからやってくるもの」に開かれた地域
地域としての活路を芸術祭に賭けていた珠洲市。しかし不思議と、そこに“悲壮感”はなかったという。
「ちょっと汚れが気になったから、作品まわり掃除してきたわ」と言いながら、芸術祭の朝礼にほぼ毎朝参加する市長。おしゃれをして展示会場までの坂をもりもりと登ってくる、90歳の地元ボランティアのおばあちゃんー‥。
「少しでも“珠洲をよく見せたい”というか、皆さんそれぞれの芸術祭を楽しんでおられる感じがあったんですね。芸術祭がちゃんと“土地のものになっている”というか、『アートを介して外とつながる』ということが珠洲市にはすごくハマったのだと思います」


「瀬戸内国際芸術祭」や「大地の芸術祭」など、他地域でも芸術祭にも関わってきた関口さんだが、珠洲市における芸術祭の“浸透の早さ”は、目を見張るものがあったという。
「能登には今でも“祭が命”という感覚があって、『みんなで一緒に祭をやる』という習慣が小さい頃からあるから、“芸術祭”というものに対してもスッと入っていけるんでしょうね。初回から、他地域での倍くらいの浸透度を感じました」
また、“半島”という地理的な条件も関係しているのではないかと関口さん。
「向こうからやってくるもの、マレビト的なるものへの対応力があるというか、受け入れてきた歴史がある。だから珠洲には外に対して開かれている雰囲気があって、“田舎”かと言われるとそうではない。確かに人口は少ないけれど、その分一人一人が粒立っているというか“厚み”があるので、こちらも下手なこと言えないと、いつも緊張するんです」

「都市」と「田舎」の間にある、縁側として
海辺や山などダイナミックな自然や、かつて賑わった歓楽街の跡など、珠洲ならではといえるロケーションを舞台に展開された奥能登国際芸術祭。
「この土地がすでに一つの“舞台”であって、アート作品はそこにおける“舞台美術”のようなものなんです。そして作品を観に来た来場者が“登場人物”になる。珠洲の場合、場所に力があるので、その分とてもドラマチックな体験になるんですよね」

奥能登国際芸術祭の来場者数は5〜7万人規模。若者や外国人などが大勢訪れ、会期中は地域全体が祝祭ムードに包まれる。
また、芸術祭がきっかけとなり、珠洲への若い移住者も増加。初回の芸術祭を開催する前の6年間と開催した後の6年間を比較すると移住者数は3倍になったという。
財政的に決して豊かではない珠洲市が、“芸術祭”を継続してきた理由はここにある。
「面白い表現だと思ったのが、地域に見知らぬ顔の人が歩いていても『あぁ、きっと移住者だよ』って住民の方が言うんです(笑)。『顔がわからない』ということを、わからないままに受け入れている。それってある意味都会的な感覚ですよね。そういうところも含めて、珠洲って“ただの田舎”じゃない。都市と田舎をハイブリッドした、“縁側”や“土間”のようなところがあると思うんです。アーティストも、そこに魅力を感じているのではないでしょうか」

アーティストと珠洲の方々は「言葉を介さないやり取りの中でも、分かり合えている部分がある」という。
「珠洲市は地理的にも、東京や金沢から見たら『ちょっと外』にある。そしてアーティストも、日常の『ちょっと外』にいる人たちです。“ちょっと外”同士、分かり合えるところがあるというか、お互いの持ちものを交換しているように感じます。アーティストも珠洲に出会うことで変わっているし、珠洲もアーティストと出会って変わっているんですよね」

硬直化した関係性を、ほどき・編み直す
そして芸術祭は「外の人」の珠洲に対する意識だけでなく、「内の人」つまり地元の意識も変えていった。
「大学で上京した頃、出身地を聞かれても“珠洲”と名乗れなかった方が、芸術祭でこれだけの方が珠洲に来られて、マスコミでも報道されて、いまでは堂々と言えるようになったとおっしゃっていました。自分たちの土地が“こんなにいい場所だったんだ”と気づかされたというか、地域に誇りを取り戻せたと」

(画像提供:奥能登国際芸術祭実行委員会)
さらに、アートが地域における“関係の編み直し”につながることもある。
ムラ的な性格も色濃く残る奥能登、子どもが少なくなると集落の外との交流は極端に減り、祭りなどの機会が減少する中、地域内の関係性は硬直しつつあった。
「みなさん職場やコミュニティでの役割があるわけですけれど、アーティストがそこに入って作業をはじめるとその“役割”が変わるんですよね。現代社会だと“周縁”にあるとされてきたものが重宝されたりとか。例えばおじいちゃんおばあちゃんの手仕事や、お客様を出迎えるもてなしが芸術祭においてはすごく大事だったりして、前景に押し出されます。固まっていた関係性がほぐされて、持ち場が変わっていくわけです」

重たい地域課題にも、時にブレークスルーを生む。
「30年間原発誘致で対立していた地域には、やはりしこりが残っていたわけです。言葉で何度やり取りしてもなかなか解決しないようなものも、芸術祭で“吹き飛ぶ”みたいなことも実際ありました。『おたくの集落の作品、なかなかだな。うちのも負けてないから見に来て!』とか(笑)。まるで“文化の運動会”みたいな感じで盛り上がって、互いに“いい方向で張り合う”というかね」
凝りやしこりをほぐし、地域に巡りを生み生命力を呼び覚ますアートの力。それはケガレを祓う祭の機能とも、どこか通ずるのではないだろうか。

“等身大”の支援、“ゆっくり”進める復興
令和6年能登半島地震が起きたのは、「奥能登国際芸術祭 2023」が閉幕して2ヶ月足らずの2024年元日。ちょっと前まで自分たちがそこにいた、つまり“芸術祭の舞台に立っていた”人々にとって、とても他人事とは思えない惨状が連日報道される。
関口さんたちのもとにも、各地から次々と支援の申し出が寄せられた。
「復興の現場は、どうしても“大きな復興”の流れの中で物事が進んでいきます。けれど、芸術祭を通して珠洲を応援してくださっている方々は、もう少し“等身大の関わり”というか、“じっくりした復興”を求められているように感じました。そうした関わり方こそが、僕らの役割ではないかと」
そこで、珠洲に心を寄せる人たちの思いを活動につなげるため、有志団体「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」を立ち上げる。「ヤッサー」とは、「弥栄(いやさか)※」を意味する珠洲の祭りの掛け声で、過去の芸術祭でも度々用いられてきた。
※弥栄…ますます栄えることや、繁栄が続くことを願う、日本古来の縁起の良い言葉

作品と拠点を開いて、“立ち寄れる珠洲”へ
ヤッサープロジェクトでまず取り掛かったのは作品の補修、そして芸術祭で“拠点”となっていた施設も再開させていくこと。その一つが外浦を見渡せる「潮騒レストラン」だ。
「地震後、珠洲に行っても“立ち寄れる場所”がとても少ない状態でした。だからこそ、芸術祭作品や拠点を復活させていくことで、外から人が来やすい状況を整えていこうと。この夏にはシアターミュージアムも営業を再開させたいと考えているんです」



震災の“記録”と“発信”
そして、震災の記憶のアーカイブにも力を入れていくために、「スズレコードセンター」も立ち上げる。
「アートが関われることのひとつは、“経済的な物差し”では測れない領域だと思います。即物的な観点からは破棄されていくようなものを拾い集めて、そこに価値を見出していく。震災後、大量の写真や映像が破棄されている中で、それらのデータを預かれる場所をつくろうと」

ただ単に、記録をアーカイブするだけではなく、地域内外での展示活動など、記録の活用や、今の能登の状況を発信することにも力を入れている。
「やはり時間とともに、人々の記憶から能登のことが風化してしまいます。だからこそ、首都圏などに向けて私たちが伝えていくことが必要です。記録と発信、それがスズレコードセンターの役目だなと」

痛みがわかる、世界と繋がる共通項
現在珠洲市飯田地区では、元金物店を改装した奥能登アーティスト・イン・レジデンス「奥能登AIR」プロジェクトが進行中。
「地震以降、珠洲に来ても泊まるところがないという問題もあったので、そこをまずなんとかしたいなと。ここに滞在すれば、誰かがいて、交流できて、今の珠洲が感じられるような、そんな場にしていけたらと思っています」

「奥能登AIR」はスズレコードセンターから徒歩約4分の距離感。地域の商店街からも近く、珠洲に立ち寄る手がかりになりそうだ。一つ一つ、点と点を繋ぐことで動線が生まれ、面となり広がりを見せつつある。
今秋には海外からのアーティストの滞在も決まっているそう。
「世界には困難な状況の中で活動するアーティストもいます。落ち着いて制作をしたいけれど、東京のような大都市ではあまりにも現地の環境と違いすぎることもあると思います。そういう意味では、被災した経験を持つ珠洲は、どこか通じ合えるものがある。震災を経たからこそ分かり合える“共通項”のようなものもあるのではないでしょうか」

歩みを止めない「奥能登国際芸術祭(Being)」
3年に一度のトリエンナーレ形式で開催されている奥能登国際芸術祭。順番的には2026年が開催年にあたるが、能登半島地震の状況を踏まえて開催の見送りが決定されており、次回の開催は実質白紙状態だ(※2026年2月現在)。
総合ディレクターである北川フラム氏も「いまは芸術祭を再開させることよりも、地域の状況に合わせて、アートの立場でできることをしていきたい」と語る。
「芸術祭」という形でなくとも、「アートにできること」を地域で実践していくために、「奥能登国際芸術祭(Being)」という名称で、活動が続けられている。
「どこから初めていくのかというと、やはりまずは“聞く”ことだと思っています。現状を自分たちの身体で知り、少しでも目線をあわせることから始める必要があると感じています。その上で、自分たちに何ができるかを考えていけたら」

多くの人々との接点を持つ「奥能登国際芸術祭」。その能力を生かし、マルチセクター・ダイアログ(※)など異なるセクターの人々の間に入り、対話の交通整理をするような役割も積極的に担っている。
※マルチセクター・ダイアログ…企業、行政、ソーシャルセクター、市民など、異なる立場のステークホルダーが集まり、共通の社会課題解決に向けて対話・協働する場。
アートが触媒になって生まれる変化
関口さんが長年関わっていた新潟県の「大地の芸術祭」。地域の女性が「今まで自分には何もできないと思っていたけど、芸術祭で仲間ができたことで「自分にもできるかもしれない」と思えるようになりました。なんなら『今では、できないことはないんじゃないか』と思うくらいになった」と話していたという。
「そのくらい、見える世界が広がったということなんですよね。これまで、個人、家庭、集落といった単位で分けられていたものが、つながり合うことで、外の世界に触れる実感が持てた。それは“アートが直接何かを起こした”というよりも、“アートが触媒になって生まれた変化”だと思います。そういう力をアートは持っているのではないでしょうか」


発災当初「アートの出番じゃない」と関口さんが感じてから、2年後に尋ねてみた。今こそ、アートの出番ですか?
「今こそ…というのとはちょっと違いますが(笑)、『アートにやれることはある』という風には感じています。土地のポテンシャルを見つめたり、人と人が関わる場面をつくったり、地域との関わり方自体は震災前とやることは変わらないと思っているんです。もちろん、手順や順序が変わることはあるでしょうけれど」
目にみえるものが壊れ「何が本当に大切なのか」ということと真正面から向き合わざる得ない能登において、アートにやれること、いや、アートだからこそできることが、まだまだある。
PROFILE
関口 正洋|1974年神奈川県生まれ。東京大学医学部健康科学科卒。1999年にアートフロントギャラリーに入社。大地の芸術祭事務局としてプロジェクトのコーディネートやファンドレージングなどを担う。2003年に大地の芸術祭の現地マネージャーとして文化施設の運営や空き家再生などを行う。中越地震では、復興支援プロジェクト「大地の手伝い」の事務局を担う。2014年から奥能登国際芸術祭のプロジェクトマネージャーとして事業の立ち上げ、以降の企画制作に従事。2024年以降は「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」の事務局長として復興支援に従事。
「奥能登国際芸術祭(Being)」https://oku-noto.jp
「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」https://oku-notosuzu.com/
「スズレコードセンター」https://okunoto-archive.jp/

